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糖尿病の歴史

日本史の中の糖尿病

a.1000年の時を超えて、藤原道長からのメッセージ

 

 糖尿病は、現代の日本では代表的な生活習慣病の一つですが、その昔はそれほどありふれた病気ではありませんでした。しかしながら、糖尿病には素人目にも特異な症状があるため日記類の記事からそれと診断がつき、このため糖尿病を病んだ日本人の記録は古くからあります。例えば、「この世をばわが世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」と詠った藤原道長が糖尿病を煩っていたことは広く知られています。

 藤原道長の体調の不調が伝えられるようになったのは、長徳4年(998)、32歳の頃からです。さらに、長和5年(1016)5月11日の『小右記』に「摂政、仰せられて云ふ、去三月より頻りに漿水を飲む。就中、近日昼夜多く飲む。口渇き力無し。但し食は例より減ぜず。」とあり、51歳の道長が、3月頃からしきりに水を飲むようになり、5月には口渇、無力感を訴えるようになっていった、と記載があります。先の歌を詠んだ時の道長は53歳で、詠歌の絶頂期を迎えていましたが、糖尿病はかなり進行しており、糖尿病性網膜症によると思われる視力障害をしきりに訴えていました。さらに、『御堂関白日記』には、「咳時許りより胸病に悩み甚だ重し」と胸病を病む様子が記されており、これは、現在でいう「狭心症発作」であったと考えられます。その後、萬寿4年(1027)11月21日には激しい下痢が頻回にあり、背中の傷がひどくなり、それから間もなく昏睡状態になり、12月4日の4巳に亡くなりました。行年は62歳であり、一族のなかでは長寿でした。ところで、藤原一族には糖尿病が多く、道長の伯父の伊尹、長兄の道隆、甥の伊周は、いずれも糖尿病がもとで亡くなっており、さらに天皇家に嫁いだ実娘の子供である69代天皇の後朱雀天皇、71代天皇の後三条天皇も糖尿病であったと言われていることから、藤原一族には濃厚な糖尿病の遺伝素因があったと考えられます。また、王朝貴族のライフスタイルは、糖尿病を発症させやすいものであり、食生活は非常に贅沢で、一日二回の食事に加え、間食や夜食も摂っており、三日に一度は宴会が催され、甘いものやお酒を大量に摂っていました。服装は動きにくいものが多く、運動不足になりがちで、それに加え、道長は神経質な性格で、当時の情勢不安や疫病の流行により常にストレスにさらされていたようです。

 このような道長の生活習慣は、まさに現代人の生活習慣に通じるものがあり、はるか1000年も前の時代において、現在の我が国における糖尿病の現状を予言するかのようなライフスタイルの人物がいたことは、大変興味深いことです。

 

b.明治、大正、昭和における糖尿病

 

 時はながれ、明治以後、西洋文化の導入と食生活の変化に伴って糖尿病患者が出現するようになります。明治、大正期の著名人の糖尿病で最もよく知られているのが、明治天皇(1952-1912)です。天皇は47歳頃より糖尿病を発症され、最後は糖尿病性腎症からの慢性腎不全で崩御されました。フランスに留学して西洋文明を最も早く享受した西園寺公望(1949-1940)も糖尿病を患っていました。さらに、作家の夏目漱石(1967-1916)、画家の岸田劉生(1981-1929)、詩人の北原白秋(1885-1943)も糖尿病を患っていました。そして、これらの多くの人が洋行など外国生活を経験している事実は、第二次世界大戦後の我国の糖尿病患者の激増が生活習慣の変化によることが大きいことを歴史的に証明しています。

 夏目漱石といえば、だれでも代表作の一つや二つを挙げることができる日本で最も知られた作家の一人であり、その作品は、人間の生き方を深く追求していながら、身近な話題をわかりやすく、ときにはユーモアを交えて書かれています。ところが、こうした作風とは裏腹に、漱石自身は、気難しい人というイメージが強いようです。40歳を過ぎたころからの日記には、「胃又不安」「胃よからず」「胃痛安眠を害す」などと、連日のように書かれています。とくに朝日新聞に連載していた「門」が終了した直後の明治43年には、胃潰瘍と診断され、伊豆の修善寺温泉で転地療養しますが、そこで大量に吐血し危篤状態に陥ります。その後、体調はますます悪化し、痔やリューマチにも悩まされ、さらに大正5年4月には糖尿病と診断されすぐに治療を受け始めています。しかし同年11月、胃潰瘍が再発し、12月9日、遂に帰らぬ人となりました。享年49歳。漱石の遺体は当時の東京大学病理学教室の長与又朗教授の執刀により病理解剖され、「夏目漱石剖検録」という報告書が残っていますが、その中には、漱石の健康状態と糖尿病との関わりについての記述があり、漱石の糖尿病が長年に渡るものであったことが示唆されています。この漱石も、先に述べたように明治33~35年(1900~1902)に、英国ロンドンへ留学しており、この留学による食生活の変化が漱石の糖尿病発症に関与した可能性は否定できません。

 北原白秋は、「この道」「ペチカ」「待ちぼうけ」などの作詞で知られ、詩、短歌、長歌、歌謡など、さまざまなジャンルの作品を多く残し、近代日本文学における代表的な詩人です。詩人として名声を博し、忙しい毎日を送っていた白秋は、視力に異常を感じながらも受診せずに体を酷使し、52歳の秋に、眼底出血を起こしてしまいます。入院して医師の診断を仰いだところ、眼底出血は糖尿病の合併症であり、腎障害もかなり重症であることが判明しました。54歳の秋に3度目の眼底出血が起きてから、病状はしばらく一進一退でしたが、56歳の秋に血圧が上昇し、呼吸困難で歩行もままならない状態となりました。年が明けて57歳の誕生日を迎えてからは、糖尿病と腎障害が急激に悪化し、呼吸困難の発作を起こし、顔面と両手両足は腫れ上がりました。おそらく、糖尿病性腎症によるネフローゼ症候群、糖尿病性腎症の病期分類でいえばステージ3以降で、低蛋白血症による胸水貯留、全身浮腫であったと推察されます。白秋は、息を引き取る直前まで、口述筆記による創作を行っていましたが、11月2日の夜明けに、病室の窓を少し開けさせ、「ああ、蘇った。新生だ。隆太郎(白秋の息子)、この日をよく覚えておおき。ああすばらしい」という言葉を残して、帰らぬ人となりました。没後、白秋の未発表の作品を集めた作品集が次々と発表されましたが、これらの作品集は、晩年の白秋が病気と闘いながらも多作であったことを物語っています。

 

c.縄文人からのメッセージ

 

 先に述べたように、第二次世界大戦後の我国の糖尿病患者の激増は、生活習慣の変化によることが極めて大きいと考えられています。特に、我国の食生活の変化の中でも大きく指摘されているのが、摂取エネルギー中の脂肪摂取率の増加と食物繊維摂取量の低下です。古来、日本は自然に恵まれ四季折々の野菜・山菜、魚介類、海草など豊かな合理的な食生活を営んできました。しかし,欧米の食習慣を基準にした食生活の近代化と生活環境の変化は縄文時代以来の植物性食品・魚介類を中心とした伝統的な食生活を崩壊させてしまいました。この食生活の変化は、今までにない肥満や生活習慣病の激増となって現れています。それでは、藤原道長よりもさらにはるか昔の我々の祖先は、いったいどのような食生活をしていたのでしょうか。

 

1)縄文人の食事は?

 食品の主な成分は、蛋白質,糖質及び脂質です。これらの食品成分は、長く地下に埋葬されると壊れてなくなると今まで考えられてきましたが、最近の研究から遺物の脂質は微量ながら比較的安定した状態で千年・万年という長い月日を経過しても変化しないで残ることが判明しました。全ての動植物は脂質を持っており、その主成分は脂肪酸で、その種類と分布割合は種によって少しずつ異なっています。この化学組成の違いを指紋がわりにして、現世の動植物や絶滅した動物に残っている脂肪酸の化学組成と照合する「残存脂質分析法」という分析法により、眼で見える形では残っていない植物を実証することができます。古代人が食べた食糧は、煮炊き、貯蔵、加工に用いた土器・陶器,使った石器、調理の煮こぼれ、タール状の付着物について炉の石・石焼料理の石、大便化石(糞石)と便所堆積物、加工食品の炭化物に痕跡を残しています。特に、縄文人の食生活を知る上で貴重な情報を提供してくれるのが、大便の化石です。それは、ギリシャ語のコプロ(糞)とリス(石)からコプロリス、糞石と呼ばれ、全国57箇所の縄文遺跡から見つかっています。帯広畜産大学の中野益男教授は、宮城県松島湾にある鳴瀬町里浜貝塚(縄文時代前期約6000年前)の糞石に残っている脂肪酸の組成から里浜人の食べたものを分析しました。その結果、シカ・イノシシ・マガモ・ウミウなどの鳥獣、オットセイ・アザラシなどの海獣,フグ・マダイ・アサリなどの魚介類、ひじきなどの海草と,トチ・クリ・クルミなどの木の実を食べていたことが明らかにされました。さらに、脂肪酸組成のパターンから、食事メニューは少なくとも13種類あり、里浜人は海辺で海産物をとりながら、動物食としての鳥獣もほどほどに摂っていたことがわかりました。糞石から明らかにされた食物の栄養成分について、食品成分表を基に計算し、21世紀の理想とする栄養指針を円形で表し対比させると、エネルギー、蛋白質、糖質、脂質ともほぼ理想値に近く、また食塩も9gであり、とりわけ現代人に不足しがちなミネラル・ビタミンも豊富に摂っており、縄文人は現代人より偏りのない食事を摂り、健康な食生活を送っていたのではないかと中野益男教授は結論付けています。

さらに、全国21箇所の縄文時代の遺跡から「パン」「クッキー」「カリントウ」という名の炭化した加工食品が見つかっています。山形県高畠町の押出遺跡(縄文時代前期 約5000年前)からクッキー状の炭化物が出土しました。この立体的な装飾を施した「縄文クッキー」はクリ・クルミの粉にシカ・イノシシ・野鳥の肉、イノシシの骨髄と血液、野鳥の卵を混ぜ、食塩で調味し、野生酵母を加えて発行させてから、平たい天然石を200℃~250℃に加熱して焼かれています。これには木の実を主体にしたクッキー型と動物性の素材を主体にしたハンバーグ型のものがあり、その栄養価は100gあたり400~580kcalでした。縄文クッキーの栄養成分は、蛋白質、ミネラル、ビタミンが豊富で栄養学的にも完全食に近く、保存食としても良好であることがわかっています。

 

2)縄文人の食に学ぶ

 今日は、機能性食品がもてはやされる時代ですが、伝統的な食品が現代にも充分に通用するものも少なくありません。かつて「粗食」は「蔬食」とも書かれたように、粗末な食事と同義語に使われた植物性食品主体の食事は、現代栄養学で「食物繊維」の重要性が認識されて日の当たる場所に置かれるようになりました。近年、食物繊維摂取量の多寡が、糖尿病発症と深く関わっていることが、多数の研究で示唆されています。我国国民の食物繊維摂取量は昭和30年以降徐々に減少していますが、この中でも特に主食の穀類由来の食物繊維摂取量の減少が目立ちます。某企業の健診センターにおいて、新規にブドウ糖負荷試験で「境界型」、または「糖尿病型」と診断された男性を対象に、食事調査を行ったところ、1日の食物繊維摂取量は平均10g前後という驚くべき少なさでした17)。これに対し、クリやクルミなどの木の実が主成分の縄文クッキーを食べていた縄文人の食物繊維摂取量が極めて多かったことは容易に推測できます。

 

3)現代における縄文食は?:現代人は、いかにして食物繊維を摂ったらよいのか?

 先の述べたように、縄文食は蛋白質、ミネラル、ビタミンが豊富で、栄養学的にもバランスのとれた食事であったことがわかります。特に、糖尿病発症予防の観点から特筆すべきは、食物繊維摂取量の多さです。一方、現代社会は極めて食物繊維を摂り難い状況にあり、このためサプリメントとして食物繊維を補おうとする考えもあります。それでは、今日、現代人はどのようにして食物繊維を摂るのが妥当なのかについて、東京慈恵会医科大学附属病院で行っている一つの方法を紹介したいと思います。

 話は今から約120年前にさかのぼります。明治17年(1884年)練習航海中の軍艦「筑波」から、「ビヤウシヤ 1ニンモナシ アンシンアレ」という電文が届きました。東京慈恵会医科大学の祖にして当時の海軍軍医、高木兼寛が、食物の栄養バランスに原因があると考えて、米麦等分の主食を海軍の兵食として定め、海軍創設以来の大問題であった脚気患者の死者をゼロにすることに成功した瞬間でした。19世紀後半、米を主食とする日本や東南アジア諸国には脚気が蔓延しており、特に軍隊では戦力に甚大な影響を与えるとして、その予防法、治療法の確立が急がれていました。そのような状況下、生活環境と脚気罹患率との関係を綿密に調査し、脚気の原因を食事の質にあると睨んだのが、高木兼寛でした。一方、細菌感染によるものとする説をとった陸軍軍医は、東京帝国大学のかの文豪、森 林太郎(鴎外)でした。食事に目をつけた高木兼寛は、海軍の練習艦「筑波」の遠洋航海にて海軍兵食改善実験(パンを中心とした洋食化)を行い、脚気による死亡者を1人も出さないことに成功しました。その後、パンになじめない人のため、代わりに麦飯を取り入れて脚気を撲滅しました。一方の陸軍では脚気はなくならなかったと言われています。麦がなぜよいのか、という栄養学的な解明がされたのは後年のことですが、この功績から男爵の位を得た高木兼寛には「麦飯男爵」という愛称もつきました。東京慈恵会医科大学附属病院では、食物繊維の摂取量を増やす一つの手段として、この高木兼寛の「麦飯男爵」にちなみ、週に1回白米に替えて麦飯を提供しています。当院で提供されている麦飯は食べやすさとおいしさ、そして栄養を考え、麦3対白米7の割合で配合しています。麦は白米に比べビタミンB1や食物繊維を豊富に含んでおり、東京慈恵会医科大学付属病院における糖尿病食を指示カロリー別に白米の日と麦飯の日で比較すると、麦飯の日は1日で約6g食物繊維が多いことがわかります。食物繊維を極めて摂りにくい状況にある現代社会において、安価で簡単に食物繊維を摂る方法として、主食の穀類から摂ることが推奨されます。玄米または、米に麦を混ぜて炊いてみてはいかがでしょうか。

 われわれ現代人は、1000年の時を越えて藤原道長から送られたメッセージや糖尿病を患った日本史の中の偉人たちからのメッセージを厳粛に受け止め、だれもが日々毎日の生活習慣について深く考え直す時期に来ています。山野をかけめぐり、季節に応じて山の幸、海の幸を採集し、バランスのとれた食生活を営んでいた縄文人の食生活に学ぶことも多いのではないでしょうか。

                                (森 豊. 日本史の中の糖尿病. 遥か 4: 27-32, 2008)

先生のご紹介

医師(非常勤):
森 豊

[経歴]                                 
東京慈恵会医科大学卒業                         
国立病院医療センター(現 国立国際医療研究センター)内科研修      
東京慈恵会医科大学 第三内科学教室入局                 
国立療養所東宇都宮病院 内科医長                    
東京慈恵会医科大学 内科学講座 糖尿病・代謝・内分泌内科 講師(併任) 
   同     助教授(併任)                   
    同     准教授                       
東京慈恵会医科大学付属第三病院 糖尿病・代謝・内分泌内科 診療部長   
平成26年 東京慈恵会医科大学 教授                   
令和3年  東京慈恵会医科大学 客員教授                 
    同大学付属第三病院 糖尿病・代謝・内分泌科 客員診療医長 現在に至る  

医学博士                                

[専門医・指導医]                            
日本内科学会認定医                           
日本糖尿病学会認定専門医・指導医                    
日本内分泌学会認定内分泌代謝科専門医・指導医              

内分泌代謝・糖尿病内科領域研修指導医                  
日本肥満学会認定肥満症指導医                      

日本医師会産業医                            

[役職]                                 

日本糖尿病学会功労評議員                        

日本内分泌学会功労評議員                        

日本肥満学会評議員                           

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